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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第2節 土曜日のギャンブル [3]




「絶対に?」
「あぁ、絶対にだ」
 聡の、小さな瞳に力が宿る。その微かな変化も見逃さず、少し顎をあげ、半眼気味に瑠駆真が続ける。
「理由が聞きたいのなら教えてやってもかまわない。別に企業秘密だと隠すような事でもないしね」
 嫌味のように小さく口元を緩め
「でも、その前にそちらの根拠を聞かせてもらう。もしくは―――」
 眉をピクリと揺らす瑠駆真。
「君の義妹に直接問いただしてもいいさ。撤回する意志はあるのか? そもそも、何が真実なのか? とね」
「緩の言っている事は嘘だっ」
 その時、予鈴が響き渡った。女子生徒が一人、また一人と去っていく。
 聡と瑠駆真も反応した。だがそれは、とても小さく少しだけ。お互いがお互いの瞳を睨み、どちらも少し、息を吸う。
「授業に出る?」
「冗談を」
 瑠駆真の問い掛けに、聡が呆れたような言葉を返す。
「生憎だが、今の俺は授業を受ける気分じゃねぇ」
 聡はグルリと首を捻る。
「まずはサボりの道連れをとっ捕まえねぇとな」
 瑠駆真の円らな瞳がニヤリと笑った。
 サラリと流れる前髪の下で、黒く大きな瞳が光る。時折、特に聡と対峙した時によく見せる、甘くとも鋭く、少しふてぶてしくもある瞳。
 攻撃的な聡にも、決して負けてはいない存在。そう、瑠駆真もやはり男なのだ。
 だが本人は気付いてはいない。
「奇遇だな」
 瑠駆真は短く答えて一度だけ瞬く。
「僕も同じ気分だよ」
 そう答えて背を向ける。そんな、自分よりもはるかに魅力的な相手の背中に、聡は小さく舌を打った。





 ちょっと無計画過ぎたかな。
 歩道と車道を分ける縁石に腰を下ろし、美鶴は空を見上げた。背後には、歩道を隔てて地下へと下りていく階段。突き当たりには、美鶴が中学を卒業するまで母の詩織が勤めていた店がある。だが、今は入れない。
 当然だ。こんな時間に開いているわけがない。今日は土曜日だから休みかもしれない。
 ママの連絡先など知らない。中学時代は携帯で連絡を取った事もあったが、その当時使っていた携帯は解約してしまった。ママがまだここで働いているとも限らない。こういった商売は突然店を閉める人も多い。一ヶ月ほどご無沙汰すると、知らぬ間に閉店していたという事態も珍しくはない。
 だが、店の名前も雰囲気も、美鶴が知っている時から変わっていないので、たぶんまだ綾子(あやこ)ママは居るだろう。
 美鶴には、母の職場といえばこのような店しか想像できない。
 一時(いっとき)は派遣などに登録もしてみたらしいが、中卒の詩織に大した仕事はまわってこず、結局は若い頃に馴染んだ世界を頼ることとなった。
 美鶴にとって、その世界が母の居る世界だった。居心地が悪いとは思わなかった。店の人はみな優しかった。綾子も、美鶴を可愛がってくれた。
 綾子ママと、美鶴は呼んでいた。小柄だが元気で、優しくてよく笑う人だった。自宅で一人母を待つ美鶴を不憫に思ったのか、よく夕飯を食べに来るよう誘ってくれた。
 学校が終わった後に確認する携帯に綾子ママの伝言やメールを見つけると、美鶴は嬉しく思ったものだ。
 店で勤める女性たちも、美鶴を可愛がってくれた。店の奥の小さな部屋で、乱雑に置かれた女性たちの私物やら酒瓶やらに囲まれながら、菓子をつまむのも楽しかった。
 閉店後、店のソファーで肩を震わせて泣いている母の後ろ姿に戸惑っていた時などは、遅くまで美鶴に付き合ってくれた。
 そこで美鶴はハッと視線を落す。
 あの時、母は泣いていた。あれはいつの事だっただろうか?
 記憶もおぼろげでハッキリとは思い出せない。たぶん、小学四年か三年か、それくらいの頃だったと思う。
 母が泣いた姿を見たのは、あの時だけだ。いつも明るくゲラゲラと笑う母が噎び泣いている姿に、美鶴はどうしてよいのかわからなかった。
 あの時、母はなぜ泣いていたのだろうか?
 ふと疑問に思い、だが息を吐いて瞳を閉じる。
 どうせ、店の客に無謀な恋でもしてこっぴどくフラれでもしたのだろう。
 だが、フラれたぐらいで泣くような母とも思えないので、この答えには違和を感じる。
 美鶴はもう一度息を吐く。
 母の涙になど、興味もない。考える必要もないじゃないか。今の私には関係ない。
 乱暴に握り締める右手の中で、乾いた音が響く。掌の中に、紺色のハンカチ。出掛けに手を伸ばして適当にカバンの中へ突っ込んできた。別にこのハンカチでなければいけなかったという理由はない。
 少し(ほつ)れた、柔らかくて、だが少し硬い。

「泣きたい時は、泣いた方がいいよ」

 あの時あの人はそう言って、駅舎の入り口に座り込んでいた美鶴へ向かってこのハンカチを差し出した。夏休みに夜の学校へ忍び込んだ、その翌朝の事だった。
 品の良い女性だった。その後、京都で再会した。小窪(こくぼ)智論(ちさと)という名前で、霞流慎二の知り合いだった。
 許婚だと知らされた。







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